2013年4月19日金曜日

人間(じんかん)主義と外国人との付き合い方


(引用)
「人間」と「間人」の間

日本人は元来、個人の主張をある程度抑制して自分が属する集団内の調和を第一に考える傾向があるといいます。この傾向は日本国内では普遍的なので、「あたかも深海魚が海水の存在を終生意識しないように」(日下公人氏による)これまで日本人は特に意識しなかったわけです。

日下氏によると、『その昔、和辻哲郎はこの傾向を論じて「人間(じんかん)」と名づけ、近時では精神医学者木村敏は「人と人との間における自分」という分析概念を提案した。著者はそれを「間人主義の日本人」と名づける。日本人は欧米的な“個人”という「人間観」は持っていないし、したがってまた個人と個人がギブ・アンド・テーク的に契約する相互関係もあまり設定しない。それぞれの人は他の人とのなんらかの紐帯のなかに、みずからの存在意識を見いだすのであって、日本人の言う「我」は自己基準をもった我ではなく、むしろ「汝の汝」であるから、いうならば日本人は人間ではなく「間人(かんじん)」であると説く。』

間人主義とは、(大阪大学・浜口恵俊氏によると)このように定義されています。「1)相互依存主義:社会生活では親身な相互扶助が不可欠であり、依存し合うのが人間本来の姿である。2)相互信頼主義:相互依存関係の上では、自己の行動に対し相手も自己の意図を察してうまく応じてくれるはずだという相互信頼が必要である。3)対人関係の本質視:いったん成立した関係はそれ自体価値があるもので、その持続が無条件に望まれる。」

間人主義の「常識」と「非常識」の間

要するに、日本人(社会・組織)は「気持ちのわかりあい」を重視する文化、気質なのだというわけです。

そうだとすると、東日本大震災と福島第一原発事故は、こうした日本人の文化や気質をさらに一層強化したことになるのかもしれません。

もしそれが本当だとすると、「間人主義」の日本人が、絆のない外の人間たちとどのようにコミュニケーションをとるというのでしょうか。間人主義に共感しない「外の人間」たちがいることなど、想像できない、ありえないそんな人は人間ではない、と思うとしたら ? 絆を共感しあえる関係を作る手続きこそが大切で、そこで何をするか、ではなく、その絆の中にいることにこそ意味があると考える、それが常識だと思うようになるとしたら ?

絆の「外」の人間たちともコミュニケーションし、理解させ理解しなければならないという「外」の現実にどう立ち向かうのか・・・この答えは、「間人主義」からは生まれません。

「問題の答は、人間と人間の間に置いてつきあう。自分自身は融通無碍である。」という間人主義で、「あなたの意見は ? 」と答えを迫られるとき、「間人主義」がグローバル人材育成の盲点とならなければ幸いだと思うのは私ひとりでしょうか。


グローバル人材育成の盲点( その 3 ) - 「間人主義」の超克
http://hrclub.daijob.com/hrclub/?p=900
(引用終)

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